残照を歩く

彼岸にもそれなりの日常風景があるらしい。

ただ一つの正解

最近は何事にあっても、一つの答えを求めようとする嫌いがあるように思います。例えば当ブログでも昨年9月、経営学者・伊丹敬之著『孫子に経営を読む』(日本経済新聞出版社)を御紹介しましたが、今「孫子の兵法」が結構なブームになっています。但し残念なのはそこに何らかの定石があるかのように錯覚し、その文章を一生懸命覚えたりする人が多いことです。当該兵法の神髄とは周りが変化することを所与として、その中で自らも変わるということです。全ての事柄には定石があり、その定石は一切変化しないものであるが如く、その原理原則に従うのが最善だといった理解が多く、非常に困ったものであります。2500年程前の『孫子』にしろ他の古典にしろ、凡そ長い人類の歴史の篩に掛かった書であっても、唯々その文章を暗記し上記のように捉えていたら全く無意味になります。あらゆる事柄は変化の中で如何に対応するかという観点で以て、例えば『孫子』であれば『孫子』を読んで行くことなしにその本質は掴み得ないのです。

『物事に一切の定石なし』 / 北尾吉孝日記 2015年2月12日

 先日書いたように、私の仕事の中でも企業会計原則のような原理原則をしばしば意識することはありますが、そうした原則は決して端的な“正解”を教えるマニュアルの代わりなどにはなり得ません。むしろ原則を参照しつつ、都度都度の状況にどう対応し、自己の判断を原則と状況の両方にどう適応させるか、というところで柔軟な判断を求められることのほうが多いと思います。
 ただ、こうした“一つの答えを求め”たがる心性を、ただその人個人の愚かさや頭の固さにのみ求めるわけにはいかないだろうな、という思いもあります。なぜ「正解」を求めるのかといえば、その人を取り巻く周囲の人々や環境がとにかく「正解」を求めるからであったり、あるいは外部のテキストの「正解」を参照することで、万が一その判断に基づいた行為が失敗した場合にも「自分一人だけの誤判断ではなかった」という理由づけをあらかじめ確保しておくため(一種のリスクヘッジですな)だったりすることも、私の経験上ではしばしばあり得ることです。失敗に対して不寛容な環境であればあるほど、その環境の中にいる一人一人の人間が、自己の置かれた環境に適応して、リスクヘッジのためにますます強く「ただ一つの正解」を求める心性は強まるのではないでしょうか。